朝ぼらけタイガー

読んだ本のレビューが中心です。ランニングなどその他趣味の話も。NPOや自治体など「公益組織」向けのコンサルティングが本業です。元はwebディレクター。

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レビュー:「虚空遍歴」その2。書きこぼしたことなど。

勢いに任せて書いた昨日のエントリで書きこぼしたことをいくつか。
こういう書きたいときに書きたいことというのはブログの良いとこですね。
 

虚空遍歴というタイトル。

 
まずタイトルの虚空遍歴について。
いやぁ格好いいよね。このタイトル。
浪漫が溢れているよ。
 
奥田民生の「さすらい」もそうですけど、やっぱ旅は浪漫です。
孤独にさまよう。あてのないこの行く道だけど、前はしっかり見据えているぜ。みたいな。
 
で、この作品。
 
同じ周五郎の長編、「ながい坂」と同じく主人公の人生やら生き様を集約した言葉です。
坂はいくらながくとも明らかに登っているのであり、登りお終えたとき景色も(それがどんなものであるとしても)見ることができるものですが、
それに対して冲也の生き様はまさに虚空を遍歴する道のり。厳しすぎます。
 
虚空とは、何もない空であり、それであると同時に仏教用語で言えばあらゆるものが在る場所である。どちらにしても何にも影響をあたえることのない場所。
 
まぁそういう厳しさの話は先のエントリで十分したからもういいですか。
 
ちょっと読みながら気になったのは冲也の言葉。作中で、彼自身が虚空遍歴というのを言葉にするんですよね。
 
場所がわからなくなってしまったので引用できませんが、
 
遍歴する人生の中で人は常に変わっていくものである。
昔の俺は今の俺とは違う。
子どもの頃の俺とも二十歳のころの俺とも、違う存在になっている。と。
 
この感覚は、分かる。
 
それと同時に語る言葉が気になる。
 
そうした変わってしまった昔の俺は虚空に浮いている。と。
 
いろいろな俺がそこらに浮いているってどういう感覚だろうね。
もちろん物理的な「そこら」にプカプカしてるとかそんな不気味に面白い絵を想像してるわけじゃないんだけど、この感覚がよく分からなくてけっこう印象に残ってる。
 
そこらに浮いている昔の俺は、確かにそこに存在している(していた)けど、
そこはもう「虚空」であり、いまの俺が影響されるものではない、
というような意味なのかな。
 
昔の自分に対して感覚的にそういう捉え方をしている人がいたら、ちょっとどういう感じなのか聞いてみたい。
 

壮絶な生き様から示唆を受けるということ。

 
さて、も一個別なお話。わりとどうでもいい話。
 
昨日から何度も繰り返すようにとても辛いお話でした。
人によって様々なメッセージを受け取ることのできるとても良い小説です。
 
脇目もふらず一心不乱に生きる様、
そのストイックさから感じ入ること考えることは多々あるんですが、
ふと思うのは、そういう超ストイックな彼と読者である自分との違い。
 
脇目もふらない彼を見ていろいろ考えている自分は今何をしているのかというと、
読書という非常に幸せな脇目タイムの真っ只中に居るわけで。
脇目タイムを豊かにしたからこそ、彼の脇目もふらないストイックさを知ることができる。
 
不思議よね。
 
いや、不思議じゃないのですかね。
読書ってそういうものですかね。
とか、そういうことすぐにふらふらと考えちゃうあたりが、何かなんでしょう。
 

以上。

 
ということで、虚空遍歴についてはこれぐらいで。
読み終わってる本3冊ほどあるので、なるべく早めに次書きます。
 
ではまた。